人間力の研究

小学校の“帰りの会”化した日本

masaru

俺は小学校の「帰りの会」が反吐がでるほど嫌いだった。やんちゃやイタズラをした人間がタテマエ的な正義によって集団で吊るし上げられる構図に、子どもながらにあさましい集団心理を見ていたからだ。これはたぶん自分の倫理観の根幹をなしている視点だと思う。

ツイッターをはじめたころから常々インターネットに蔓延る「正義のひと」の鬱陶しさや偽善は胸クソが悪かったんだけど、さまざまな炎上事案や煽り運転暴行事件をきっかけに、最近ようやく正義のひとの害悪や危険性がちらほら言われるようになってきた気がする。気づくのが遅いよ。

煽り運転暴行事件は擁護の余地がない。けれども、容疑者の確保をいまかいまかと待望し、身元が割れるや否やそれとばかりに襲いかかる連中にも擁護の余地がない。いったいいま、日本でなにが起こっているのか。

ここ数年で日本人の国民性が変質したとも思えないし、結局はスマホからSNSが普及して万人に発信の機会が与えられた結果、国民総参加じみた「帰りの会」的な状況が生まれたと見ている。音楽家の坂本龍一はこのまえどこかのメディアで「なにも発言できない世の中になってきた」と嘆いていたけれど、言論や発信の自由が等しく与えられた結果、自由な言論や発信が窒息しつつあるとすれば、これ以上の皮肉はない。政治屋が支持者を集めたパーティでこぼした内輪向けの発言が叩かれ、芸能人の他愛もないコメントも不謹慎を言われたりする。いまや公職者や有名人は「私的な話」ができる場所をほとんど喪失した状況だ。

一方、SNSはだれもが有名人になれる機会も作った。注目や共感を集めればいい。そのときにもっとも手軽なのが「正義」や「怒り」だった。

何年かまえにアイスバケツチャレンジが流行ったことがある。そのときは「人間は自分の正義が可視化される連帯にとても弱い」と揶揄した気がするんだけど、こうした正義や正しさへの共感も、突き詰めると“悪いやつ”を集団で制裁したくなる集団心理と同根である。

こうした傾向は“正義への共感”を悪用してきたノイジー・マイノリティと言われるお友だちのご活躍からもみてとれる。代表的な種族にはたとえばフェミニストがいる。ツイッターに張り付いているフェミニストに頭の弱いブスしかいないのはほぼ定説と化したけれど、気に入らない連中を集団で制裁する手口に関してはいまの世相をはるかに先取りしていた。

なぜこうまで他者を集団で制裁することに熱狂できる社会が生まれたのか。おそらく、日本全体が“帰りの会”化した現状には3つの要因がある。

SNSの普及

万人に等しく与えられた発信の機会は、「正義」や「怒り」を利用することでより効果的に拡散/参照されることが発見され、同時にだれもが有名人になれる状況も作った。

お客サマ視聴者サマ有権者サマ

これらに媚びる企業やメディアや政治家の猫なで声が、日本人に特有のクレーマー気質を増長させ、結果的にそれは「怒り」や「ご意見」を表明することにゴネ得じみた集団的正義を与えた。

格差社会

1995年には世界全体に占める比率で17.6%あった名目GDPが、2018年には5.9%まで落ち込んでいる。年金制度の崩壊は明らかで、世代間格差を中心に様々な格差が日本を分断した結果、日本はずいぶん余裕のない国に成り下がってしまった。恒産なくして恒心なし、である。

これら3つの要因が複雑に絡み合い、“帰りの会”化した日本が強固に固定化されていくのが令和の時代になりそうだ。かつてホッブズが言った「万人による万人の戦い」が4世紀近く経って現実のものとなりそうな気配である。②や③はいまさらどうしようもないし、どうすればいいんだろうね。

たぶんそれはこういうことだ。

言いたいことは、言えばいい。けれども──
群れるな。共感するな。孤高であれ。

これがもっとも間違いのないSNSの利用である。そもそも“つぶやき”ってそういうものでしょ。

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ヤマモトマサル
ヤマモトマサル
ラボ所長
自分が感じた謎を探求することが好き。理論的思考が得意だが、直感や当たって砕けろの精神を大切にしている。ラボと称するアトリエで好きな事に没頭して過ごすことが多い。
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