ボランティア(無償奉仕)と聞くと、個人的には危うさを感じる。

例えば「害虫の駆除」というボランティアがあるとして、害虫駆除の機材、防護服、死骸の掃除、アップデートされ続ける昆虫知識の勉強、その他の作業など、人件費を差し引いてもコストはかなりかかる。
さらには環境保護団体やら昆虫愛護マニアやら「虫を殺すな!この虫殺し共が!」という強い反発も予測されるので、そうした外野にも対処が必要になる それだけのコストを割きながらボランティア活動を継続して長年行うには、動機づけがとても大切と思う。
「みんなの笑顔が最高の報酬です!」と本気で言ってる人は危うさ倍増だ。
被害者からの感謝の笑顔がなければ、そうした動機のボランティアの人達は「無報酬」になるので、害虫駆除をしてもらった人達は「感謝を報酬として差し出す」事になる。 中には頼んでも無いのに害虫駆除をして、こいつは感謝が足りない!などいい出す輩もきっと出てくる。
だからボランティアを成立させるには、個人的な利益がしっかり確保された状況がありきで、結果として無償奉仕というカタチが理想的とは思う ボランティア害虫駆除の場合なら、昆虫学者で害虫が研究分野で大量の虫のサンプルが必要とか、超絶虫マニアで群生している虫に囲まれるだけで脳汁が溢れるとか害虫駆除のエピソードを漫画にしてしっかり金儲けしたいとか、個人単体のメリットをしっかり確保できた状態で、結果としてボランティアという形態になったというのが大変好ましい。 中には「自分が死すとも社会的意義がある!」という誉れ高き人もいるかも知れないが、信念だけで飯は食えないと思う。
いずれにしても、ボランティアそのものが目的になっている人は危うさを感じるし、無償奉仕を継続するための動機づけをどこに見出しているのかは、何かしらの活動を継続するためのポイントのひとつかなと思う むしろ報酬として金銭を得られる方が、手段と目的を履き違えなくて済むし、メリットが明確だ。
カルト信者の無償奉仕は面白い構造をしている ①神様が喜んでくれるから ②将来、神様から最高の報酬がもらえるから ③仲間が褒め称えてくれるから 思いっきり自分の願望に突き動かされているのだけど、本人たちは自分の欲には無自覚で、利他的と思い込んで熱心に奉仕する。便利な仕組みだなと思う。